駅舎を出て、公園を横切るようにして通りへ向かう。人の姿はほとんどない。通りには北風が吹きぬけ、擦れ違う人はみな俯き加減。
今年は一月にも雪が降った。また寒波がきているらしい。ひょっとしたら、明日あたりにも雪がチラつくのかもしれない。ホワイトバレンタインだと、同級生たちが教室で盛り上がっていた。
バレンタインか。
美鶴は、チョコレートは用意していない。用意したところで霞流は受け取ってはくれないだろう。渡すにしても、月並みな渡し方では効果は無いに決まっている。店に押しかけたところで相変わらず相手にはされないのだろうし、最近は試験勉強のために繁華街への外出は控えていた。
もっと積極的になろうとは決めたけれど、結局私、なんにもしてないよな。
電車に乗り込む。人混みに巻き込まれぬよう、聡が腕で支えてくれた。必要以上に構われる事を避けながら、これが霞流さんだったらいいのにと思ってしまい、聡には申し訳なく思う。
聡、私からのチョコ、期待してるのかな?
そんな人に、自分ではない女の子からのチョコを受け取ってやれと口にするのは、やはり気が咎める。
別に悪い事をしているワケじゃないのに。
そう言い聞かせながら、どうしても後ろめたさを感じ、口にできないまま最寄の駅に着いてしまった。
寒いのにノロノロとした足取りで家へ向かう。そんな歩みを止めたのは、聡の方だった。
「お前さぁ」
重そうに口を開く。
「なんか変じゃねぇ?」
「え?」
美鶴も立ち止まり、振り返る。
「なんか最近、上の空ってカンジ」
「え? そう?」
内心ドキリとしながら、できるだけ平静を装う。
「そんな事ないよ」
「あるよ」
「試験の事を考えてるからじゃない?」
「違うと思うぜ」
「何でよ?」
「駅舎での勉強も、上の空だったから」
返す言葉が見つからなかった。
「何かあった?」
問いかけに、意を決して口を開こうとした美鶴だったが、その前に聡の方が畳み掛けてしまった。
「噂の事?」
「噂?」
ワケがわからず聞き返す。
「噂? アンタとツバサの噂?」
あんなモン、誰が気にするか。
呆れたような美鶴の言葉に、聡は真面目に否定する。
「そっちじゃない」
そうして一度口を閉じ、ゆっくりと開いた。
「お前が、繁華街をウロついてるって噂」
思わず息を吸ってしまった。意思とは無関係に吸い込んでしまった冷気が気管を刺激し、噎せそうになってなんとか堪えた。
「おばさんの店にでも行ってたのを見られてたんだと…」
そこまで言って、聡は美鶴の表情に気付いてしまった。
「何?」
「あ、いや」
慌てて取り繕う。
「そんな噂があるんだ」
できるだけさり気なく髪を撫でる。
「知らなかった。そうだね、お母さんの店に行ったのを見られてる事もあるよね」
聡相手なら誤魔化せられる。そう言い聞かせる。
「別に、お母さんがどんな仕事してるのかはバレてる事だし、今さら気にする事でもないと思うけど」
「嘘だな」
二人の間を、北風が吹き抜ける。辺りが少しずつ暗くなる。二の腕から首筋にかけて、悪寒が走った。
「嘘?」
「何を隠してる?」
「別に何も」
「噂の事、知らなかったのか?」
「知らない」
「じゃあ、何を隠してる?」
一歩近づく。
「何か、隠してるだろ?」
「別に何も」
一歩下がろうとする美鶴の腕を捕まえた。
「繁華街を出歩いてるって噂、本当なのか?」
「だから、それはお母さんのお店に行っ」
「それは嘘だ」
断言するような声。
「悪いが、瑠駆真でなくてもお前の嘘くらい見破れる」
「変な事言わないで。嘘なんてついてない」
「じゃあこっちを見ろ」
顎を取られる。指の冷たさに寒気が走る。
「冷たっ」
「こっちを見ろ」
強引に首を動かされた。
「俺の目を見て言ってみろ。嘘じゃないって」
「嘘じゃ、ないよ」
「じゃあ、何を隠している?」
「それは」
言うなら今しかない。そう思って見上げると、瞳が合った。身が震えた。
これって何? 腕を取られて顎を取られて、こんな至近距離で見合わせて。なんだかまるでキスでもするみたいじゃない。
キ、キス? 馬鹿っ! 何考えてるのよ。今はそれどころじゃないでしょ。早くツバサからの頼まれ事を伝えなくっちゃ。
里奈に会ってやれ。チョコレートを貰ってやれ。手作りだぞ。里奈の手作りなんだから美味しいに決まってる。
寒さに震える唇を小さく舐め、息を吸った時だった。
「美鶴」
小さな声だった。北風に吹き飛ばされてしまいそうなほど微かな声が、辺りの空気に溶け込むようにして二人の耳に届いた。同時に視線を向ける。聡は首ごと。美鶴は視線だけで。
「どうして金本くんと」
美鶴は、中途半端に口を開いたまま瞠目した。同時に身が大きく跳ね上がり、無意識に聡を突き飛ばしていた。
「田代」
二・三歩よろけた聡は、小さな瞳を見開いて言った。美鶴は名前を呼ぶ事もできなかった。
里奈。
一瞬流れた沈黙を破ったのは、意外にも里奈だった。
「こんなところで何やってるの?」
「な、何って」
どう説明すればいいのかわからず狼狽える思考を吹き飛ばすのは、また別の声。
「ごめん、シロちゃんっ」
北風すらも跳ね返すかのような快活な声。
「あのおばあさん、耳が遠いだけじゃなくって、なんか一回聞いたこ、と…」
角を曲がって小走りに寄って来る。そうして場の雰囲気に目を瞬いた。
「あ、れ?」
順番に眺めていく。
「シロちゃん? と美鶴、と、金本くん?」
言いながらその表情が少しだけ強張る。
「三人でどうしたの?」
周囲を見渡していた視線が、美鶴の上でピタリと止まった。
「こんなところで何を?」
「それはこっちのセリフ」
視線が交わった事で我を取り戻した美鶴が言い返す。
「お前達こそ、こんなところで何してる?」
「私達は手紙を出しに行ってきたところで」
「手紙?」
「うん、ウチの施設ね、一人暮らしのお年寄りに定期的に手紙を出すボランティアをしてるんだ。それを投函しに行った帰りで」
「二人は何してるの?」
遮った声に、ツバサも美鶴も、そして聡も目を見張った。
声は決して大きくはなかった。強くもなかったし威圧も感じない。ただ、その行動を取ったのがあまりにも意外な人物だったので、驚かずにはおれなかった。
里奈は、他人の言葉を遮るようような真似など、滅多にはしない。
「何してるの?」
知らずに俯きがちになっていた里奈は、そこでクルリと反転して背後のツバサと向い合う。
「ツバサ」
「な、何?」
「私のお願い忘れたの?」
「え?」
「金本くんと会わせてっていうお願い」
途端、小さな緊張が走る。ツバサの視線は美鶴へ向い、美鶴は思わずそれを避けてしまった。ツバサの異変に里奈も気付き、今度は美鶴を振り返る。
「何?」
怪訝に首を傾げ、またしてもツバサを振り返る。
「美鶴がどうかしたの?」
「あ、あのね」
言葉に詰まりながら身を乗り出す。
「忘れてたの?」
「忘れてない。忘れてないよ」
必死に首を横に振る。
「忘れてないけど」
「けど?」
「あの、あのね。忘れてたワケじゃなくって、その」
忘れていたワケではない。ツバサは里奈が聡と会えるよう、ちゃんと交渉はした。だが、聡の方が納得してはくれなかった。
そう伝えようとは思うのだが、ツバサの口は思うようには動かない。
寒いワケではない。ただ、なんとなく言い訳がましくなるような気がする。
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